盧溝橋事件
盧溝橋事件とは
盧溝橋事件の定義・意味など
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月7日、近衛文麿内閣の成立直後に、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍が突発的に衝突した事件をいう。
参考:『詳説 日本史』 山川出版、1978年、312頁。『授業の理解から入試対策まで よくわかる日本史』 学研教育出版、2013年、332頁。
盧溝橋事件の意義・評価・解釈
日中戦争
事件発生後、日中全面戦争(日中戦争)に突入したが、盧溝橋事件はその発端とされる。
岩波書店 『広辞苑 第六版』、『授業の理解から入試対策まで よくわかる日本史』 学研教育出版、2013年、332頁など
ただし、これには異説がある。
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盧溝橋事件の経緯
盧溝橋事件の経緯については、高校の教科書・参考書では、たとえば、近衛内閣は不拡大方針を声明したが、現地軍は軍事行動を拡大した。
※1、または、現地ではいったん停戦協定が成立したが、近衛内閣は当初の不拡大方針を軍部の圧力で変更し、兵力を増加した。
※2などと簡単に記述しているだけである。
※1『詳説 日本史』 山川出版、1978年、312-313頁。
※2『これでわかる日本史B』 文英堂、2014年、246頁。
さらには、一方的に次のような中国寄りの説明をしている参考書もある。
近衛内閣成立の翌月、1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋において、日本軍が中国軍に対して攻撃を開始した。しかし中国軍が日本の要求を受け入れ撤退し、11日に現地において停戦協定が成立した。ところが日本政府は、同日3個師団の派兵を決定して全面戦争への準備と決意を固め、7月下旬、北京・天津周辺で一斉に総攻撃を開始・占領した。日本の中国侵略は、いよいよ本格化したのである。
『チャート式 新日本史 近代・現代編』 数研出版、2004年、139-140頁。
しかし、経緯の詳細は以下のとおりである。
7月7日夜、盧溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国軍を攻撃し、両軍の交戦にいたった。
岩波書店 『広辞苑 第六版』
そして、同日この事件に関して日本政府に連絡が入り※1、近衛内閣は9日に不拡大方針を閣議で確認した※2。
※1盧溝橋事件の不拡大方針と近衛内閣のその後の対応について | 茶山(さやま)の関心事セット http://iineiineiine.net/2375.html
※2近衞文麿内閣(第一次)(第34代) http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/prime_japan/34.html
しかし、10日に参謀本部第三課と第二部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出した。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件
そして、11日に近衛内閣の首相、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣の五相会議が行われ、この会議で陸軍の情勢分析が報告され、改めて日本本土に駐屯している陸軍を3個師団派遣することが決定され、同日夜に日本政府は決定された派兵の件について「北支派兵に関する政府声明」を発表した。
参考:盧溝橋事件の不拡大方針と近衛内閣のその後の対応について | 茶山(さやま)の関心事セット http://iineiineiine.net/2375.html
同声明の内容は以下のとおり。
相踵(つ)ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の、七月七日夜年蘆溝橋附近に於ける不法射撃に瑞を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり。為に平津方面の情勢逼迫し、我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず事件不拡大の方針に基き局地的解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに不拘、突如七月十日夜に至り、彼は不法にも更に我を攻撃し再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ、而も頻りに第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ、中央軍に出動を命ずる等武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく、遂に北平に於ける交渉を全面的に拒否するに至れり。以上の事実に鑑み今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。
…
第四〇号(昭一二・七・二一) 「派兵に関する政府声明」 http://binder.gozaru.jp/040-ha.htm
しかし、この声明が出された11日に現地では交渉が行われており、停戦協定が成立した。
『チャート式 新日本史 近代・現代編』 数研出版、2004年、130頁。
本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、日本政府と中国政府は、停戦協定と並行して大兵力を動員させた。このことは、主戦派や強硬派を勢いづけ、以降の事件拡大の大きな要因となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件
盧溝橋事件の原因・背景
中国共産党
東京裁判において日本側は、「蘆溝橋事件は蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀であった」として、日中対立を煽った中共の謀略について論証しようとしたが、ウェッブ裁判長は「支那あるいはその他の場所での共産主義その他の思想の存在、またはその蔓延にかんする証拠は、すべて関連性なし」として、その書証は全て却下されてしまった(江崎道朗 正論2006/10月号)。
盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説【賢者の説得力】 http://kenjya.org/rokoukyou.html
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